崎山克彦とカオハガンの歩み

崎山克彦とカオハガンの歩み

目次

崎山克彦のプロフィール

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1935年
(昭和10年)
福岡県生まれ。
成城学園初等科、中等科、東京都立新宿高校、慶應義塾大学法学部卒業。
1959年
出版社「講談社」入社。
1963年
カリフォルニア大学バークレイ校大学院でジャーナリズムを学ぶ。
1965年
国際出版社「講談社インターナショナル」入社。その後10年をアメリカで過ごし、日本に居るときも毎年2回くらい世界一周をし、異文化間の交流に努める。
1987年
退社。偶然に、フィリピン、セブ島沖のカオハガン島に出会い、購入してしまう。
1988年
米国出版社「マグロウ・ヒル出版」日本支社長。
1991年~
カオハガン島に生活の拠点を移し、暮らし始める。

その後は、21世紀の理想的な小さなコミュニティつくりを目指して、島民たちと一緒に暮らしている。著書に、『何もなくて豊かな島』(新潮社)など9冊がある。そのうちの数冊が、台湾語、中国語、韓国語に翻訳出版されている。

島を買ってしまったいきさつ

a-4_1カオハガン島に興味をもってくださる方が、まず いちばん先に口にする質問は「すごいですねえ、島を買ったんですって。決断でしたね。いくらだったのですか?」なのです。ひょっとすると、私も、もしそんな人物に出会ったら、同じような質問をするかもしれません。
でも、私は、まったく決断などしていないのです。海や島が大好きだった男が、52歳のときに仕事を辞めたとき、夢のような南の島にたまたま出会いました。そして、 “Fall in love.” 恋に落ちてしまったのです。
理由、決断など、何もありません。

ここで、唐突ですが、私が大切と思っている、詩のようなことばを紹介させてください。
どうしたら 空が買えるというのだろう?
そして、大地を。
わたしには 分からない。
風の匂いや 水のきらめきを
あなたはいったい どうやって買おうというのだろう。

大地は わたしたちに属しているのではない。
わたしたちが大地に属しているのだ。

あらゆるものが つながっている。
わたしたちが この命の織りものを縫ったのではない。
わたしたちは その中の 一本の糸にすぎないのだ。

縁も所縁もないカオハガンという土地を、島を、私はほんとうに偶然の出会いから買ってしまいました。そしてその後また、日本で仕事を始めて、その間に、年に何回か島を訪れました。
そうこうしているうちに、私の心の中に、良心の呵責のような感情が芽生えてきたのです。
長い年月をかけて自然が創りあげ、そこに島民たちが長年暮らし、島民の血であり生命である土地を、突然に現れた私が買い取ってしまうことが許されるのだろうか。

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そして、そんな時に読んだ、フランスの作家 ル・クレジオ の文章が、私を救ってくれました。

・・・ 昔は、大地は所有できるものではなかった。
・・・ 私たちは、土地を、神から、貸し与えていただいているのだ。使わせていただいているあいだに、それをより良いものにしてお返ししなければ。 ・・・

そうだ、その通りだ!
私がカオハガンに暮らし、その土地を使わせてもらっている間、そのカオハガンの自然の環境、そして島民たちの暮らしの環境を保ち、それを、いっそう良いものにしてお返しすることなんだ。
こうして、心の安らぎを得て、カオハガンで生きる目的、指針が、はっきり
と見えてきたのです。

今までの島での歩み

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1987年6月
崎山克彦52歳の時、22年間勤めた、英文で異文化を紹介する国際出版社「講談社インターナショナル」社を退社。
1987年9月
崎山が、ダイビングのために訪れたフィリピン、セブ島沖で「カオハガン島」に出会い、その美しい海洋の自然に魅せられる。そして、島が売りに出されていることを知らされ、その場で購入を決めてしまう。
1988年~1991年
崎山、東京にて「マグロウ・ヒル出版ジャパン」社の社長を務める。この間に、年に4~5回のペースでカオハガン島を訪れ、将来島で何をするべきかを考え、宿泊施設「カオハガン・ハウス」の建設を始める。
1991年の暮れ
崎山、東京にて「マグロウ・ヒル出版ジャパン」社の社長を務める。この間に、年に4~5回のペースでカオハガン島を訪れ、将来島で何をするべきかを考え、宿泊施設「カオハガン・ハウス」の建設を始める。
1992年
吉川順子が、島で崎山と共同生活を始める。
1994年1月
崎山と友人たちが助言、援助をして「カオハガン小学校」で6年生までの授業が始まり、就学年齢に達した全員が小学校で学ぶようになる。それまでは、島の小学校は2年生までで、3年以上は隣りのパンガナン島の小学校に通わねばならず、ほとんどの人が2年終了の学歴だった。
1995年
カオハガンの活動をサポートするNGO「南の島から」が東京で発足。
1995年6月
崎山の初めての著書「何もなくて豊かな島」が新潮社から出版され、上製本、文庫本の両方で販売数が20万部を越え、ベスト・セラーとなる。このころから、カオハガンへの一般の宿泊客が多くなり始める。
1996年
吉川順子の指導により、島民たちの手による「キルトつくり」が始まる。
1996年6月
カオハガンの子どもたちのための「奨学金制度」をスタートさせ、優秀 な子どもが、ハイスクールそして大学で学び始める。
1996年10月
崎山が、小型ヨットでアメリカまでの航海に参加。8ヶ月間の南太平洋の航海の後、サモアとハワイの間で遭難、沈没。しかし、無事に島に戻る。
1997年1月
「日本デンタル・ミッション(JDM)」が、年に2回、島民の無料歯科診療を開始。現在も継続して診療に来てくださっている。
2006年7月
「日比友好50周年」の年、カオハガン島での活動が評価を受け、崎山が、外務大臣賞を受賞する。
2008年9月
カオハガン島の沖合い36万平米の海を囲って、「カオハガン島熱帯珊瑚礁保護区」を創設。珊瑚礁、海洋生物の保護をはじめる。
2008年~2009年
島民の暮らしから学ぶことをテーマにした「スタディー・ツアー」が始まった。学生生協を通して募集をし、毎年、8回、一週間のツアーが組まれ、たくさんの学生さんが参加をしてくれて評判となっている。
2010年、2011年
小学校の先生となる国家試験に、アンアン、イズミラルダ、マニュエリートの三人が合格し、2013年から、カオハガン小学校で教鞭をとっている。
2011年1月
「パッチワーク通信社」のご寄付を得て、島に、図書館が完成する。
2011年7月
島に「ヘルス・センター」が創設され、ミドワイフの資格をとったバージニアが働き始める。市からいただいた薬を使って、島で簡単な治療ができるようになった
2013年4月
未来のカオハガンのあるべき姿を、島民、そして若い世代と考える「カオハガン2050」という長期計画をスタートさせる。それを執行する非営利組織「Association for Caohagan 2050」を発足させる。